パーパスストーリー01
運んだのは、世界最高齢で挑む
海洋冒険家の“夢と勇気”、
支援者たちの想いでした。
始まりは、当社の筒井社長に届いた、一通の手紙でした。「単独無寄港太平洋横断で乗るヨットを、サンフランシスコまで運んでほしい」。かの海洋冒険家・堀江謙一さんからのご依頼でした。
当社は、堀江さんと同じ関西大学ヨット部のOBが在籍するご縁もあり、1980年代から計6回にわたって堀江さんの冒険をご支援した実績があります。くわえて堀江さんには1988年に、当社の50周年記念で講演していただき、社長もそれをよく覚えており、是が非でもお力になりたい思いがありました。
そのような経緯から、当社は堀江さんのご依頼を快諾。業務には、大型貨物の搬送に強い私の部署をはじめ、船便の手続きに長じる国際課、アメリカでの輸送を担う米国日新などがあたり、グループの知見を結集して臨むことになりました。出港予定は2022年3月。まだまだ新型コロナウイルス感染症による物流混乱が収まらないなか、プロジェクトはスタートしました。
託された堀江さんのヨットは、今回の冒険用にオリジナルで設計された「世界で一艇しかない1点もの」。輸送するのが世界的な冒険家が乗る代えのきかないヨットであること、そしてコロナ禍のさなかであることから、私は率直にこう感じました。「これは、ハードで責任重大なミッションがまわってきたな…」と。そして実際に当プロジェクトでは、いくつものイレギュラーな難題が、行く手に立ちはだかったのでした。
まず直面したのが、ヨットを載せる北米行きのコンテナを手配できないという問題でした。コロナ禍で世界各地の物流が混乱し通常のコンテナスペースを確保するのさえ困難な状況だった上に、ヨットが通常のコンテナサイズに収まらないことが災いし、スペースをどうにも確保できない…。
加えて、ヨットを載せた船が入る予定のロサンゼルス港でも、問題が起こっていました。物流混乱もあってか、その頃近辺には大量の船が沖待ちしており、いつ入船できるか読めない状態だったのです。
Profile
大阪営業第二部 営業第一課
青木 剛
1999年入社。神戸支店営業開発課、大阪営業第二部営業第四課、神戸支店倉庫第一課を経て、2017年4月より 現在の大阪営業第二部 営業第一課に配属。
主に中国、東南アジア、北米向けに大型機械設備の一貫輸送及び据付業務を行っている。
その他に中古建機の輸出や家具・雑貨の輸入業務も行っている。
そのような状況だっただけに、堀江さんには、リスケジュールのご相談もさせていただきました。ところが、堀江さんからのご返答は「NO」でした。
時期を後ろにずらすと、サンフランシスコから出港後、暴風雨に遭うリスクが高まってしまう。だから、遅くとも3月末には出港しなくてはならない。もう、冒険は始まっているんだと。
それまでに堀江さんとは何度かお会いし、とても気さくかつ協力的に接していただいていました。ただ、この時ばかりは、固い意志を感じました。ああ、この方は冒険家として日程はもちろん、気持ち的にも肉体的にも、もう準備をされているんだなと。その姿を見て、この冒険家の志と夢を叶えるために、とにかく力を尽くそう。改めて、心を決めました。
そうして全力で注力することになったコンテナスペース問題は、時間と交渉を要したものの、最終的には全面協力してくださる船会社さんが見つかり、なんとかスペースを確保。当社の国際課が長年お取引をしていた会社さんで、これまで築いてきた信頼関係が功を奏しました。その後、周辺の沖待ち問題もなんとか乗り越え、大幅に遅延することなくロサンゼルス港に入港。私たちは、大きな山を越えたのでした。
ただ、それ以外にもいくつかの問題に直面しました。たとえば、輸送船内でのヨットの固縛です。ヨットの素材は強化プラスチックで、輸送中の揺れでヨットが破損しては大変なことになるので、コンテナ内に固縛しなくてはいけません。その点、私たちは大型機械類をよく固縛して輸送するので基本のノウハウはあるのですが、今回は一点もののヨットだけに勝手がわからない部分もある。そこでヨットの設計者と直接お会いし、固縛する際のポイントを教えていただき、それに沿って作業を行いました。
ところが…。それをチェックした船会社の担当者から「縛りが緩すぎる」と、突き返されてしまったんです。ヨットの設計者は緩くないとだめだと言い、船会社はきつくなくてはいけないと言う。経験したことの状況に陥りましたが、その後両者の要望をふまえながら細かな調整を行うことで、なんとか固縛作業を完了。結果、絶対に破損してはいけないヨットを、無事アメリカに運ぶことができたのでした。
そしてもう一つ、結果的に最大の難関となったのが、出港地であるザ・サンフランシスコヨットクラブへの入港です。
今回は、前述の通り周辺の港の沖待ち問題もあり、ロサンゼルス港からはヨットをトレーラーに積み込み、陸路でヨットクラブへ向かう計画を立てていました。事前に米国日新と綿密に連携を取りながら、計画は順調に進み、トレーラーにヨットを積み込むところまでは問題なく進みました。
ところが、そこで事態は急変します。なんと、同クラブから「海からでないと入港できない」と言われてしまったのです。同クラブは富裕層の会員を抱える名門であり、確固たるローカルルールがある。船を陸から降ろすリソースも備えていない。そうしたクラブの事情とこちらの事情が、手違いで伝わっていなかったのです。
実は同クラブは、堀江さんが1962年に初めて太平洋単独無寄港横断に成功した時の、到着地でした。ですので、今回は逆にそこから出港して日本に戻ることに大きな意味があったのです。とはいえ、近隣にヨットを降ろせるヨットハーバーが見つからない。正直、お手上げ状態でした…。
そんなおり、“奇跡の風”が吹きます。
ヨットの搬入ルートが決まらないと呼びかけたところ、複数の情報が寄せられ、その中で堀江さんのヨット仲間であり支援者でもある現地在住の日本人の方々が、作業可能なハーバーに話を付けてくださったのです。そこからヨットを海に降ろし、ザ・サンフランシスコヨットクラブへ入港できると。堀江さんは、ヨットマンの間では、伝説的な存在です。今回の冒険には、多くのヨットマンたちの思いも一緒に乗っている。それを体感した瞬間でした。
3月26日にサンフランシスコを出発した堀江さんは、順調に航海を続け、いよいよ6月初頭に日本へ帰還する見込みとなりました。
そして6月4日。往路は貨物として、復路は船として移動する形となった堀江さんのヨットが、ついに沖から姿を現します。到着の地・新西宮ヨットハーバーでは、1,000人にものぼりそうな観客が駆けつけて大きな声援を送り、あわせてほぼ全ての主要テレビ局が取材にやってきていました。
それを見て、改めて思いました。コロナ禍でまだ閉塞感が続くなか、堀江さんはみんなに夢と希望を与えるとてつもない挑戦を成し遂げたんだなと。私としても、大変なことがあったからこそ言葉にできない達成感と安堵感が込み上げ、同時に物流マンとして当プロジェクトをお手伝いできたことに誇りと感動を覚えました。
プロジェクト終了後には、堀江さんから直接「日新に任せてよかった」と感謝の言葉をいただき、その後何人ものお客さまから「あの堀江さんのヨット、日新さんが輸送したらしいね!」とお褒めいただきました。
物流の仕事の裏には、一筋縄ではいかないことがたくさん潜んでいます。そこに、チャレンジ精神と探究心をもって取り組むことで、人々に夢や感動、笑顔をもたらすお手伝いをする。今後もそのようにして、当社のパーパスを実現していきたいです。